2022年11月208日 金曜日
里の在処を求めて



令和4年11月20日
里探し
そもそも自分には里と呼べるものは 父の実家宇和島 母の実家の丸亀にも祖先のだれもおられず 気が付けばここ京都の下鴨本町12−4に65年にわたり住み続け私が最年長者になっていた。ここを拠点として圭子との結婚生活を続け 史朗 誠 豊がうまれ それぞれが伴侶 子供を持ち それぞれの地で生活をして 特にここを離れるつもりもない。終の棲家がここで ここがふるさとになるのだろうと漠然とかんがえていた
経緯
 今から4年ほど前に 三男豊が 城陽の借家で植えた樹々が大きく育ち 挙句は家屋にまで枝をのばし 庭を利用するどころか 本人たちの生活を脅かす事態になってきていた 木をきれば 大家さんの田畑さんが豊一家を気にいって ここに住み続けていいよと 挙句は養子縁組して住み続けてほしいとまでいわれた 豊達には毛頭その考えはなく 樹々を抱えて 植栽可能な地を探そうかなといいだして 4年前から気に入っている琵琶湖周辺に新たな棲家を探し出した
2〜3件の物件を興味本意に同行しているうちに 熱が入りだし 場合によっては賢佑自身の棲家と考えていいなと想うようになってきた ここ下鴨の地を手放すつもりは毛頭ないが 別宅とかんがえていた そんな事は口に出して居なかったので 豊達も軽い気持ちで まさか 賢佑が一緒についてくるとはゆめにも思わずお父さんも来たらいいがなと 物件探しに同行を許してくれていた。

そのうちに 湖北に住む友人たちが自分たちの住む 木之本 小山に空き家はなんぼでもあるでというので観に行ってみると立地条件は申し分なく、村の入口に位置する大きな一軒家がとても気にいってしまった 事情を訊いてみると家主の馬場信子さんは40年来一人暮らしで2年ほど前 体調を壊され 施設に入っておられ 身内として唯一の甥御さんの千田さんは 車で30分ほどの長浜市におられ 時折馬場家の空き家の世話に来られるが
不十分で 隣に住まわれる馬場氏の遠縁の山内さんが見かねて 草刈などしておられることが分かって来た
家主の馬場さんは先きに何のこころづもりもなく施設に入れられて居たので 信子さんの家の処遇 例えば家を貸すとか売るとか 誰かに託すとかを 確認することが第一の取りつきとかんがえられが 運悪くコロナ禍で面会がままならず ご本人が高度の難聴ということもあり 意向すら聴くことが大変困難なことがわかった 甥御さんと言えども叔母さんの持ち物
を勝手に処遇することも出来ず 肝心の蠣主の意向が不明なままいたずらに時が経過した。それならば所轄の長浜市のふるさと再生的な部署がないかを さぐると きわめて熱心な該当課があることがわかり 早速そちらにコンタクトを入れるべく豊が挨拶にいった それを知ることとなった市長さんが 幸い豊の活動を知っていただいていたので 課の方に三浦豊は市にとっても大切な位置にいるので しっかりサポートするようにとおこえをかけていただいた事を担当の久保さんからお聞きできた。ここまでくるとぐっと現実的に考えられるようになり 豊に言わせると 妄想が始まったと。
もし自分に終の棲家が得られるとすると まず立地は村と言われる処で余り辺鄙不便でなく歴史的にある程度古い方がいい。信仰心が途絶えていない処で 山崩れのない程度に山に近く 勾配の緩いところで 清らかな地下水が流れ込むところ 使用可能な井戸がほしい
こじんまりとしたしっかりとした結のあるようでかつ 排他的でなく 村意識のしっかりあるところがいい
出来れば琵琶湖 余呉湖のような雄大かつ きれいな湖に数q以内がいい 氾濫のな魚釣りや水遊びの出来る河川がほどほどの位置にいたい
母屋をぐるりとゆったりと取り囲む敷地がほしい 隣とある程度の距離10m内外の距離がほしい
母屋は三浦一族15名程度が集えるゆとりのある家がいい 家からの眺望は広々と田園 雑木林が見渡せるところがいい 家具 書籍類がゆったりと収納できる 二階とかに収納スペースがほしい 外からの出入りが安全に苦もなく出来るところがいい
これらが全部叶えてくれるような 馬場邸である
こんな夢のような家に住めたら希望を述べたのでなく
現実の馬場邸の様子を描写したものであるから夢の邸宅そのものである
ここまできたら 一刻も早く豊達の物になってほしい
さてそれからの過程は皆が忘れてしまうほど進展しなかった  だめでなく 家主さんの意向がうかがえぬまま2年がすぎた だれかが邪魔をしたり 干渉されたり 競争者が出現したわけでない
馬場信子さんとコンタクトがとれないだけだった 機会は2〜3か月に一度病院通いに甥御さんの千田さんにつれられて外出される時だけで 高度の難聴で こちらの希望すら伝えることがかなわなかった
2年もすぎた令和3年秋に やっと2度目の対面が馬場さんの近い縁者のかた、長浜市のふるさと再生の久保さん 推薦仲立ちの労を採っていた頂いている 元地元中中学校の校長をしておられたお隣の山内さん   彫金師で3年前に当村に移住をはたされた貴島さんの立ち合っていただくなか 馬場さんのお家で会合が実現した
令和4年11月21日
千田氏は空き家をまかされたものの どのように話をすすめていってよいか 途方にくれ 手っ取り早く 売る方向を希望されていたが 当方は田舎に住むのも初めてで ご当地が豪雪地帯ということを聴いていたのと なにより 購入資金はなく 改装するとしての改装資金もなく とりあえず 当分は貸していただいて様子を観たいという 本音を伝えていた
ここで甥の千田さんが 馬場さんの耳元で大きな声で
「おばちゃん 三浦さんが京都からきて この家に住みたいと云うたはるんや」と声をかけていただいた
事前に幾分かは事情は把握していただいていたとおもわれるが 千田さんのお声がけのあとうつむいてしばらくしてから 「借りてもらうだけやろう」といわれ
千田さん以外は 貸していただくのが当面 妥当と思っていたので まず長浜市の担当者の久保田さんが 「貸して頂けまsね それではその線で行きましょうか」とまとめていただき 他の者全員が賛同に意向をしめした。馬場さんに 久保田さん「具体的には
これから説明します」と言っていただけた 千田さんも不承不承ながら納得していただき 具体的に屋敷の説明をしていただけた。具体的には千田さんも詳しくは知っておられず むしろ ここで生まれ永年 馬場家の隣で生活しておられ 実質この宅を見守ってきていただいた 山内さが 他家との境界 家周囲だけでなく 馬場家所有で 他に貸しておられる部分の概略を説明していただいた
それによると 隣接家の明確な境界がすっきりとわかった
二階建て下6室他2階は馬場家の物がぎっしり詰まった物置的な構造とか 家周囲は約4反の畑地にかこまれ
隣接して1/2反程度の竹林、生きている立派な井戸、
荒れ果てた日本庭園も明らかになった
築140年で空き家同然になって 40年の家屋は痛みが強く住むにはかなり手入れが必要な事は 素人目にもあきらかだった 後日建築設計者の長男史朗の下見で
補強箇所はおおむね分かった
正式な賃貸契約がすみ 馬場家の持ち物がある程度勝たずかないと 手が着けられないことも分かってきた
約半年後 久保田さんのおかげで 正式賃貸契約を結ぶことができた 現在 当地は過疎に拍車がかかって
幸い買い手 移住者もおおく 担当者の抱える物件はおおく それだけ 相場とか問題点は比較的明確になってきているとはいえ 歴史 感情も加わる空き家の処遇は大変な仕事であることは容易に想像できるなか
久保田さん初め関連各位の奮闘のおかげで令和4年7月に契約にこぎつけ 具体的に移住の話が展開していった
なお 担当者の久保田さんの実家葉長浜市内であるが小山より数十キロ北の  で 豪雪地帯に生まれ 長浜市の消防署トップまで勤め上げらた方です